大塚愛と関係ないブログ

Thursday, April 13, 2006

容貌(ようぼう)

 その瞬間、誰かが扉の挿錠(さしじょう)をがちゃがちゃさせた。私は急いで誰でも外から入って来られないようにして、それからまたすぐその瀕死(ひんし)の敵手のところへとひき返した。しかし、そのとき眼前にあらわれた光景を見たとき自分をおそったあの驚愕(きょうがく)、あの恐怖を、どんな人間の言葉が十分にあらわすことができようか? 私が眼(め)を離していたそのちょっとのまに、室(へや)の上手(かみて)の、つまり遠いほうの端の配置に、見たところ、重大な変化が起きていたのだ。大きな鏡が――自分の心が混乱していたので私には最初はそう思われたのだが――いまや前になにもなかったところに立っていたのだ。そして、私が極度の恐怖を感じながらそれに近づいてゆくと、私自身の姿が、だが真(ま)っ蒼(さお)な、血にまみれた顔をして、力のないよろよろした足どりで私の方へすすんで来た。 そんなふうに見えた。が、そうではなかった。それは私の敵手であった、――それは断末魔の苦悶(くもん)をしながらそのとき私の前に立ったウィルスンであった。彼の仮面と外套とは床の上に、彼の投げ棄(す)てたところに、落ちていた。彼の衣服中の糸一本も――彼の顔のあらゆる特徴のある奇妙な容貌(ようぼう)のなかの線一つも、まったくそのままそっくり、私自身のものでないものはなかった! それはウィルスンであった。けれども彼はもうささやきでしゃべりはしなかった。そして私は、彼が次のように言っているあいだ、自分がしゃべっているのだと思うことができたくらいであった。――「お前は勝ったのだ。己は降参する。だが、これからさきは、お前も死んだのだ、――この世にたいして、天国にたいして、また希望にたいして死んだんだぞ! 己のなかにお前は生きていたのだ。――そして、己の死で、お前がどんなにまったく自分を殺してしまったかということを、お前自身のものであるこの姿でよく見ろ」

凄(さび)しくなって

 あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。 夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけて掻(か)きまわし、何やら捜している様子でしたが、やがて、どたりと畳に腰をおろして坐ったような物音が聞えまして、あとはただ、はあっはあっという荒い呼吸ばかりで、何をしている事やら、私が寝たまま、「おかえりなさいまし。ごはんは、おすみですか? お戸棚に、おむすびがございますけど」 と申しますと、「や、ありがとう」といつになく優しい返事をいたしまして、「坊やはどうです。熱は、まだありますか?」とたずねます。 これも珍らしい事でございました。坊やは、来年は四つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその二つの子供よりも小さいくらいで、歩く足許(あしもと)さえおぼつかなく、言葉もウマウマとか、イヤイヤとかを言えるくらいが関の山で、脳が悪いのではないかとも思われ、私はこの子を銭湯に連れて行きはだかにして抱き上げて、あんまり小さく醜く痩(や)せているので、凄(さび)しくなって、おおぜいの人の前で泣いてしまった事さえございました。そうしてこの子は、しょっちゅう、おなかをこわしたり、熱を出したり、夫は殆ど家に落ちついている事は無く、子供の事など何と思っているのやら、坊やが熱を出しまして、と私が言っても、あ、そう、お医者に連れて行ったらいいでしょう、と言って、いそがしげに二重廻しを羽織ってどこかへ出掛けてしまいます。お医者に連れて行きたくっても、お金も何も無いのですから、私は坊やに添寝して、坊やの頭を黙って撫(な)でてやっているより他は無いのでございます。