大塚愛と関係ないブログ

Sunday, February 26, 2006

君とは生涯なんの交渉も、持ちたくない

「何をしに、上京したのだ?」と、きいておいて、もし青木の返事が、彼の東京に永住することを意味していたら、雄吉は、即座に、「僕は、君とは生涯なんの交渉も、持ちたくない」と、断言する意志であった。「何をしに、上京したのだ?」という言葉は、それだけでは、普通なありふれた挨拶を、少しく粗野にいい放ったに過ぎなかった。しかし、雄吉がその言葉にこめた感情は、青木に対する全身的な恨みと憎悪とであった。雄吉は、後でその瞬間に、自分の目がどんな悪相を帯びていたかを、思い出すさえ不快であった。まして、その目を真向に見た青木が、名状すべからざる表情をしたのも無理はなかった。その顔は、憤怒と恥辱と悲しみとが、先を争って表面に出てこようとするような顔付であった。それはすさまじいといってもいいほどの恐ろしい顔だった。 彼は生涯に、この時の青木の顔に似た顔をただ一つだけ記憶している。それは、彼が、脚気を患って品川の佐々木という病院に通っていた頃のことであった。彼はある日、多くの患者と一緒に控室に待ち合わしていると、四十ばかりのでっぷりと肥った男に連れられてやって来た十八ばかりの女がいた。雄吉はその男女の組合せが変なので、最初から好奇心を持っていた。すると、そこへ医員らしい男が現れた。その医員はその四十男と、かねてからの知合いであったと見え、その男に「どうしたのです。どこか悪いのですか」と、きいた。すると、その男はまるきり事務の話をするように、ちょっと連れの女を振り返りながら、「いやこれが娼妓(しょうぎ)になりますので、健康診断を願いたいのです」と、いった。それはその男にとっては、幾度もいいなれた言葉かも知れなかった。が、娼妓になるための健康診断を受けることを、多くの患者や医員や看護婦たちの前で披露されたその女――おそらく処女らしい――その女の顔はどんな暴慢な心を持った人間でも、二度と正視することに堪えないほどのものであった。 女は心持ち顔を赤らめた。その二つの目は、血走って爛々と燃えていた。それは、人の心の奥まで、突き通さねば止まない目付であった。雄吉は、その目付を今でも忘れていない。それは恥じ、怒り、悲しんでいる人間の心が、ことごとく二つの瞳から、はみ出しているような目付であった。もう、それは三、四年も前のことであった。が、今でも意識して瞳を閉じると、その女の顔が、彼の親の顔よりも、昔失った恋人の顔よりも、いかなる旧友の顔よりも、明確に彼の記憶のうちに蘇ってきた。

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